第2回シンポジウム 「ズーノシスのリスクアナリシスを考える」 研究会目次


4 ズーノーシスのリスクアナリシスモデル  - 韓国の狂犬病 -
 
 井上 智 国立感染症研究所獣医科学部第二室
 
  ヒトに対して感染性のある病原体のほとんど( 868種類、全体の61%)はズーノーシス関連であると報告されています(文献1)。また、ヒトの新興・再興感染症の75%がズーノーシスとも言われています(文献2)。ペットブームや流通の国際化によってヒトの公衆衛生に問題となるズーノーシスが私達の生活を脅かす機会は増えていくものと考えられます。最近、日本でもペット動物由来のQ熱や島根県におけるオウム病の集団発生、川崎市の動物園で発生したヘラジカ由来のオウム病が話題となっています。また、国内にはサル、アライグマ、スカンク、キツネを除いて公衆衛生上の輸入規制がなく、多種類の野生動物が大量に輸入されていることもよく知られるところです。いずれの場合も、ズーノーシスとしての感染症は実態を把握しにくく少ない情報から発生とその危険を推定しなければならないという困難があります。
 
  感染症が新しく発生する場合には「生態系の変動」と(1)病原体の種類、(2)伝播経路と(3)宿主域の三者を含む特異な「リスクファクター」が深く関与しているといわれますが、ヒトが発症する際に媒介動物等が関与するズーノーシスではその感染や流行の様式が複雑であり病気の発生把握が容易でないことが多いのが現状です。サーベイランスによるズーノーシスに関する情報収集と解析は大変重要ですが、現在サーベイランス情報の体系的な収集が行われているのは家畜と一部のイヌだけでありその他の動物群については必要なサーベイランスの体制が整備されていません。また、必要な情報の収集を行った後で効果的なズーノーシス対策を行うために必要とされるリスクアナリシスの方法についても現在のところ十分確立されていません。
 
  日本では狂犬病予防法によるイヌの検疫、ワクチン接種、登録、野犬の駆除などを強く推進してイヌの狂犬病制圧に成功しました。しかしながら、最近では国内の狂犬病予防対策への意識が低下してきているようです。そこで今回、感染の経路と流行の形態について情報と知見が多く、予防対策の方法が比較的確立しているとされる狂犬病をズ−ノ−シスのリスクアナリシスモデルの題材として取り上げてみました。また、ここでは「リスクアナリシス」の3要素から情報の収集・提供、バリデーションの説明責任、リスク評価/管理の再評価を意味する「リスクコミュニケーション」に注目しながら解析を試みてみます。
 

  日本では 1957年に報告されたイヌの狂犬病を最後に半世紀近くもの間国内で狂犬病の発生を見ていません。しかしながら、狂犬病は日本、英国、スカンジナビア半島など一部の国を除いて全世界で発生しており、世界中で毎年35,000人から50,000人ものヒトが狂犬病で死亡しています。日本を取り囲むアジア諸国の狂犬病流行状況や狂犬病流行地からのリスク動物の輸入リスク、国内におけるイヌに対するワクチン接種率の低下などを考慮すると日本の狂犬病侵入リスクは増えていると言えるのでしょうか。狂犬病清浄国であるイギリスでは、2000年に行われた検疫規則の改正時にIan Kennedy教授らが狂犬病に感染した動物が英国に侵入する危険度の「リスクアセスメント」を行い狂犬病がイギリスに侵入する危険度は28年から34年に1度と報告しています。日本は、狂犬病が国内から消えて40年以上が過ぎているわけですから仮にイギリスと同じ状況として少なくとも1回は狂犬病の侵入が起きるリスクを抱えていることになります。

 

  さて、実際に今現在日本に狂犬病が侵入したとすると「どのような状況」で「どの経路」から「どれほどの規模」で起きるのでしょうか。そして、日本への狂犬病の侵入を阻止もしくは流行の再発生を未然に防ぐためには今何をどのようにすべきか、また、現在可能な最も効果的な対策方法とは何であるかについてどのように解析が可能なのでしょうか。

 
  隣国であり、国土の様子や生活習慣、文化的な側面で似通った点の多い韓国では、 1984年に狂犬病を制圧して1992年までの間に狂犬病の発生がなかったにも関わらず、1993年に狂犬病が再流行しています。私達は、彼等の経験から多くのことを学ぶことができるのではないでしょうか。韓国で1922年から1938年に行われたイヌのワクチン接種と放浪犬の駆除は狂犬病の減少に十分効果的であったと言われており、1954年から1989年までの35年間におけるイヌの狂犬病ワクチン接種率の平均は33%と報告されています。そして、狂犬病が再発生する以前の1990年から1992年の3年間におけるイヌのワクチン接種率は19%であったと言われています。狂犬病の再発生以降、イヌの狂犬病ワクチン接種率は1993年の29.2%から1994年の47.7%に上昇しています。その後1993年から1996年にかけて狂犬病の発生数が減少したと報告されていますが、1997年の19頭から1998年の60頭と発生数が急増しています。1993年以降の狂犬病は非武装地帯(DMZ)に隣接した韓国北部で発生している点が特徴であり、幅2kmのDMZとこれに続く10kmの民間人統制区域が野生動物の保護地域となり狂犬病の流行を維持する空間となっているようです。実際に1993年から1999年にかけてタヌキの狂犬病が報告されておりDMZに生息する野生動物としてタヌキが狂犬病の伝播者になっていると考えられています。1998年にはイヌの総数の43%に相当する130万頭と野生動物2万頭にワクチン接種が行われ、ネコへのワクチン接種や野生動物を対象とした経口ワクチンの開発も現在すすめられていると言うことです。
 
  韓国で8年間にわたって狂犬病の発生を見なかったにも関わらず、狂犬病が再発生した原因はどこにあったのでしょうか。大きくとらえて以下の3点ではないかと考えられます。
(1) イヌに対する狂犬病ワクチン接種率が 20%であった。
(2) 国境を介して狂犬病に感染した動物の侵入を許した。
(3) 野生動物(タヌキ)に狂犬病が流行した。
いずれも狂犬病対策の重要なポイントであり解決されなければならない課題の1つ1つです。韓国の事例から、狂犬病の流行が1度始まってしまうと流行の原因となっている動物の対策に多額の予算が費やされ、再び清浄国としての地位を得るためには長い年月が必要であることが理解できます。また、飼い主による個体監視が可能なイヌの狂犬病は比較的制御しやすいと考えられますが、ヒトの管理が及ばない野生動物に狂犬病が流行した場合にはヨーロッパや北米の先進国が経験しているように毎年億単位の予算が狂犬病対策に投入されることになります。したがって、野生動物の狂犬病は流行の阻止に莫大な予算と時間が必要となるため特に警戒すべきといえます。
 
以上のことから、
(1) 狂犬病の発生リスクがある動物を国内に持ち込まない、
(2) イヌに対するワクチンの接種を徹底する、
(3) 仮に狂犬病が侵入した場合に迅速な対応ができる検査・監視体制を整えておく、
(4) 狂犬病が発生した地域での感染動物の封じ込めや放浪・野生動物の対策を確実に行えるようにしておく
といったことが韓国の事例から学ぶことができます。
 
文献
(1)

Woolhouse, M.E.J. (2002) Population biology of emerging and re-emerging pathogens. Trends in Microbiology 10:S3-S7.

(2) Taylor, L.H. et al. (2001) Risk factors for human disease emergence. Philos. Trans. R. Soc. London Ser. B 356:983-990. 
 
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