第7回 人と動物の共通感染症研究会学術集会 研究会目次


[教育講演] アジアの狂犬病の現状を知る
 
井上 智(国立感染症研究所)
 
  平成18年(2006)11月に、ヒトの輸入狂犬病が京都と横浜で続けて2例発生しました。これは、昭和45年(1970)にネパールでイヌに咬まれた青年が帰国後に狂犬病を発症して死亡してから実に36年ぶりの症例です。京都と横浜で発生したヒトの狂犬病はいずれもフィリピン滞在中に狂犬病の飼いイヌに咬まれたことが原因です。咬傷後に暴露後の予防接種が速やかに行われていたならば発症は予防できたものと考えられます。
 
  世界では毎年55,000人が狂犬病で死亡し、その56%がアジア諸国の地方都市や辺境地で発生しています。また、2億5,000万人が狂犬病ウイルスの感染にさらされ、800〜1,000万人が曝露後予防(PEP:post-exposure prophylaxis)を受けているとも言われています。わが国では、1950年に強力な狂犬病予防法を制定することにより、1956年のヒトとイヌ、1957年のネコを最後に国内からの狂犬病を撲滅することに成功し、その後は1970年にネパールから帰国した青年が国内で発症した輸入例1例のみが報告されていました。2005年7月に上海で開催されたAsian Rabies Expert Bureau (AREB)の会議報告によると、2004年は10万人当たりの狂犬病発生率がタイの0.03からインドの2-3人となっておりインドは間違いなく世界最大の狂犬病発生国と言えます。次いで、中国の2,651人、フィリピンの248人、インドネシア99人、スリランカ97人、ベトナム81人、タイ19人と報告されており、特に中国は1998年来、急激に増加傾向にありここ数年感染症による死亡者の1位が狂犬病となっています。 
 
  狂犬病に対する知識の欠如、イヌの飼育形態の複雑さ(個人所有の飼いイヌより、コミュニティーの中で飼われている)、公衆衛生対策における優先順位が低いこと、国家の財政上の問題によるイヌに対する狂犬病対策の遅れ、イヌの頭数の制限の困難さ、ワクチン生産供給体制の不備等がアジアにおける狂犬病の制圧を困難にしている原因と考えられます。
 
  私たちは、海外で狂犬病に感染したヒトが帰国後に発病する機会が決してゼロでないことを理解しました。海外から国内に持ち込まれるもしくは侵入する全ての哺乳類を把握して適正な管理下に置くことも容易ではありません。海外に出かける際には渡航地の狂犬病事情をよく知って、飼い主の明らかでないイヌ、ネコ等のペットや野生の動物には特に注意して気軽に接触しないことが大切です。万が一渡航先で狂犬病の疑われるイヌ等に咬まれた場合にはできるだけ早く最寄りの医療機関で適切な処置を受けましょう。適切な情報提供による市民の狂犬病に対する予防意識の向上については、日常で市民と接する機会の多い医師・看護師・獣医師等に期待される所とその果たす役割はとても大きいと言えます。
  狂犬病の世界的な分布と自然宿主域の拡がりを考えると、狂犬病はまだまだ忘れることのできない医・獣医領域で重要なズーノシスと言えます。将来、国内で狂犬病と言う悲惨な感染症が二度と起きないために、また、風評被害による不必要な社会的混乱を未然に防ぐためにも是非とも狂犬病に対する正しい知識と理解の普及が望まれます。
 
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