感染症トピックス 研究会目次


わが国における犬の狂犬病の流行と防疫の歴史 4
 
明治以後の発生
  近代の発生については、 明治3 (1870) 年に東京府下で発生が記録され、 次いで明治19 (1886) 年に麻布区で門衛が犠牲になったことが明記されている (4) 。
 
  明治初期は行政諸制度の整備も進められていた時代であり、 明治初 (1868) 年東京番人規則が制定され、 第三十条に 「路上に狂犬あれば之を打殺し戸長に告げ之を取棄る手続きをなすべし」 との規定が制定されているところから、 明治新政府における本病の位置付けを知ることができる (20) 。
 

  明治3 (1870) 年の発生を見てから3年後の同6 (1873) 年に、 長野県下に流行して恐水病患者9名が出た後は、 しばらく平穏な時間が流れたが、 同17 (1884) 年以降同20 (1887) 年までに東京農林学校家畜病院に入院した狂犬病の犬は30数頭に達するという情勢となった。 同19 (1886) 年に東京府麻布区で門衛が恐水病に斃れ、 翌20 (1887) 年には東京府牛込区で飼い犬が発症し、 飼い主の令嬢とその乗用馬が咬傷を受けて死亡した。 その後東京での発生はいったん治まっているが、 同25 (1892) 年に大分県下毛郡下に狂犬が現れ、 牛馬20頭を咬傷して馬3頭・牛14頭が斃れ、 翌26 (1893) 年2月に長崎市では外国人の飼い犬が発症して多数の人畜に被害が続出し、 咬傷者70数名中8名の死亡者を出す惨事となった。 長崎市では徹底した犬の撲殺作戦を展開し、 4月中旬までに735頭の撲殺犬のうち48頭の狂犬病の犬を数えて、 市民を恐怖に陥れたという (4) 。

 

  明治28 (1895) 年、 長崎医学専門学校長崎病院栗本東明内科医長は、 パストゥール氏法により狂犬病犬の脳を家兎に接種して得た第11継代苗を被咬傷者25名に接種して、 発病者を1名も出さなかった。 これは、 わが国狂犬病予防注射の嚆矢である (4) (19) 。

 
  長崎では、 市内のみでなく、 郡部にも拡散して多くの咬傷者を出した。 このように狂犬病が長崎で猛威を振っていた明治26 (1893) 年には、 神奈川県下足柄郡国府津地方にも発生しており、 さらに翌年以降の続発の兆しをみせていた。 即ち、 明治30 (1897) 年以降は関東、 関西、 九州と、 収拾がつかない程に大発生が繰り返えされ、 これには野犬撲殺を主体とする防疫対策で対処されている。 同37 (1904) 年から39 (1906) 年の間に兵庫県で4,520名の被害者を出し、 死亡者は35名に達した。 このときの発生の疫学調査の結果では、 鉄道沿線沿いに自然蔓延したものと、 岡山県の猟師が犬を同行して兵庫県下の家に宿泊したときにその犬から蔓延した事例が記録されている (4) 。
 
  明治39 (1906) 年から40年にわたり、 東京、 神奈川、 静岡の発生にとどまらず、 岩手県、 青森県にまで発生が拡大したが、 青森県の発生事例は関東からの北上ルートではなく、 日露戦争の樺太軍凱旋軍人が樺太から連れ帰った犬からの感染であった (4) 。
 
  明治40 (1907) 年の北海道南部室蘭千舞別村を発端とした流行では、 5月に1頭の狂犬が現れ、 12歳の少女が同年10月に発症死亡したのを端緒として、 瞬く間に周辺3区23郡を蹂躙し、 被咬傷者526名、 そのうち死亡者21名、 犬、 牛、 馬などの狂犬病発症動物252頭を数えた (4) (18) 。 また、 このときに撲殺された野犬畜犬の頭数は13,442頭に達したという (27) 。 そのときの伝染経路は確定できていないが、 前年以来流行を継続していた青森県から、 潜伏期間中の犬が津軽海峡を渡り渡道したものと推定されている (4) 。
 
  大正時代に入ってからも東京を中心として全国的な流行はとどまることを知らず、 昭和に入り昭和19 (1944) 年から第二次世界大戦終戦後の混乱期まで猛威を振った。
 

  大正5 (1916) 年、 神奈川県愛甲郡都岡村 (現横浜市旭区今宿南町) での発生は三十余頭の被害犬を生み、 その惨状に心を痛めた清来寺の曽我順彰住職ら有志16名が被害犬の遺骨を埋葬し、 犬形石像の墓碑を建立しており、 現在も清来寺により供養されている。

 
  発生頭数の推移には、 社会情勢も関係していた。 表3は、 犬の狂犬病の全国と南関東 (東京・神奈川・埼玉・千葉) における発生頭数の推移である。 明治末期から大正時代初期にかけて東京を中心に関東地方、 中国地方、 九州地方で流行を繰り返し、 大正12 (1923) 年の関東大震災と同13 (1924) 年の大阪での大流行を含み、 同14 (1925) 年までの3年間で9,093頭という未曾有の発生を記録した。
 

  昭和3 (1928) 年に急激に減少が見られるが、 これは大正天皇の大喪の儀と昭和天皇の即位御大典に際し、 全国的に狂犬病予防を強化する週間行事が展開され、 野犬の大掃蕩をはじめ、 不用犬の買上げ、 新聞を利用した記事掲載等の大運動が展開されるなど、 防疫への努力がなされたためとみられる。

 
  また、 第二次世界大戦終戦間近の昭和19 (1944) 年には東京都520頭、 神奈川県94頭、 埼玉県110頭の発生があって、 昭和18 (1943) 年まで比較的低位に推移していた発生状況を一変させ、 大戦末期から戦後の混乱期の世情不安に加え、 狂犬病は多くの市民を恐怖に陥れた。 南関東各都県における発生頭数の推移については、 表3に示したとおりである。 神奈川県では多摩川に近い川崎市北部地域、 埼玉県では現在の飯能市付近、 東京都を基点とする中仙道沿線、 川越街道沿線、 日光街道沿線の三大要路沿いの県南部地域、 また千葉県では江戸川に接する市川市付近、 および埼玉県と接する野田市付近がそれぞれ発生の中心となっており、 互いに流行地域が影響しあっていたことが分かる。 (17)(23)(24)(25
 
表3 明治30 (1897) 年以降の犬の狂犬病の全国と南関東地域における発生頭数の推移 (29)
西 暦 年 全 国 南 関 東 東 京 都 神奈川県 埼玉県 千葉県
1897 71 28 24 4 0 0
1898 62 40 26 11 2 1
1899 120 48 29 10 7 2
1900 480 64 54 7 3 0
1901 180 40 35 5 0 0
1902 60 68 40 26 1 1
1903 71 37 29 8 0 0
1904 59 35 29 5 1 0
1905 52 26 25 1 0 0
1906 6 8 7 0 1 0
1907 210 13 10 3 0 0
1908 249 111 57 45 9 0
1909 314 239 88 137 6 8
1910 184 71 50 11 4 6
1911 570 469 452 5 5 7
1912 716 590 453 89 7 41
1913 857 583 356 114 20 93
1914 1490 349 223 97 15 14
1915 1422 470 388 40 20 22
1916 733 600 428 131 18 23
1917 698 636 452 149 33 2
1918 1073 777 511 213 35 18
1919 888 730 464 203 49 14
1920 523 514 265 235 9 5
1921 922 619 384 187 38 10
1922 1046 477 212 196 69 0
1923 2702 166 126 22 14 4
1924 3278 1041 726 278 30 7
1925 3113 1248 597 511 82 58
1926 1829 770 385 172 21 192
1927 997 372 96 236 4 36
1928 440 96 33 30 0 33
1929 172 21 14 7 0 0
1930 65 22 19 3 0 0
1931 44 23 22 1 0 0
1932 63 26 26 0 0 0
1933 22 21 21 0 0 0
1934 11 10 10 0 0 0
1935 11 7 7 0 0 0
1936 3 3 3 0 0 0
1937 5 5 5 0 0 0
1938 6 4 4 0 0 0
1939 4 4 4 0 0 0
1940 3 1 1 0 0 0
1941 15 15 15 0 0 0
1942 4 4 4 0 0 0
1943 1 1 1 0 0 0
1944 746 724 520 94 110 0
1945 113 100 83 17 0 0
1946 29 15 14 1 0 0
1947 38 33 28 5 0 0
1948 143 122 91 11 20 0
1949 616 394 190 83 121 0
1950 879 579 256 196 127 0
1951 337 218 115 79 24 0
1952 233 165 72 93 0 0
1953 180 145 128 170 0 0
1954 98 72 47 25 0 0
1955 23 21 3 18 0 0
1956 6 6 0 6 0 0
1957
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